自然と人間の「共同作業」が育てた、富山の寿司文化
大地と人の「共同作業」
富山の寿司文化は、自然と人間の「共同作業」によって育まれてきました。
3,000メートル級の立山連峰と、深さ1,000メートルを超える富山湾、すなわち4,000メートル(1万3千尺)の高低差がもたらす自然の恵みと、その環境下で暮らしてきた富山の人々の粘り強い創意工夫が重なり合って生まれた、富山ならではの食文化と言えます。
ただ、富山の人々の特徴ともいえる勤勉さや試行錯誤の姿勢そのものも、同じ自然環境の中で育まれてきました。
雪を蓄え、雪解け水で野山をうるおし、陸と海の生態系を豊かにする「命の水源」である立山連峰は、人々の暮らしに恵みを与える一方で、畏怖(いふ)の対象でもあり続けました。
江戸時代の古文書や藩政記録には、豪雪による家屋の倒壊、農作物の凶作、飢饉(ききん)などの歴史が克明に記されています。
1858年(安政5年)の飛越地震では、鳶山(とんびやま)が山体崩壊を起こし、膨大な量の土砂や土石流が人々の暮らす地域へ押し寄せる「山津波」という大災害が発生しました。
三八豪雪(1963年)、五六豪雪(1980〜1981年)など、戦後の大雪の記憶も語り継がれています。
それでも先人たちは、度重なる砂防工事や「暴れ川」と呼ばれる河川の改修、用水路の整備を積み重ね、過酷な大地を少しずつ豊かな土地へと変えていきました。
土石流や洪水に悩まされ、水はけが良すぎるため作物が育ちにくかった扇状地はやがて、日本有数の米どころへと生まれ変わり、郷土の作物を育む大地となったのです。
海と人の「共同作業」

一方、富山湾に面した地域では、先人たちが漁業を発達させてきました。
魚にダメージを与えず、適切な量を漁獲する「越中式定置網」の発明もその一例です。
沖で捕った魚を海水氷に入れて冷やし込み、野締めに近い状態(完全な活魚ではないが、死後硬直前でもない状態)で水揚げする努力も漁師たちは続けてきました。
すぐに締めるか締めないか、すぐに使うか少し寝かせるか、その判断を料理人にゆだねる、使い手の技量を引き出す「余白の大きい魚」を届ける努力です。
海の幸だけではありません。神通川をさかのぼるサクラマスを捕らえて、押し寿司の一種「ます寿司」をつくったり、川魚のアユをなれ寿司にしたりと、先人たちは川の幸も存分に生かし、食の文化を豊かにしてきました。
北前船の寄港地として栄えた富山の沿岸部では、昆布、醤油(しょうゆ)、塩、酢など、東西の食材や調味料が北前船を通じて集まる地の利を生かし、自然の恵みを巧みに生かす独自の食文化も発展させてきました。
第二次世界大戦後、江戸前の影響を受けながら、富山で独自に発展した握り寿司文化も象徴的です。現在では、ミシュランの星を獲得する店を次々と生み出すまでに至っています。
富山の奥深い寿司文化は、4,000メートルの高低差が生み出す自然の恵みと、その環境下で鍛えられた偉大な先人たちの勤勉さと粘り強い創意工夫の姿勢によって築き上げられてきました。
その歩みの延長線上に、現代の私たちも生きて、自然との「共同作業」を今も続けています。
写真:菓子雅史
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